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阪神・淡路大震災 消防職員手記(灘消防署)

最終更新日:2023年9月15日

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消防士はがんばった(1995年3月号掲載・今村 明)

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このたびの地震では、もっと早く消火し、もっと多くの人を助けたかったと消防士全員残念に思っています。被災された方々には心よりお見舞申しあげます。

でも、消防士一人ひとりは精一杯活動した。身内を褒めるのも変な話だが、改めてみんな頑張るなあと感じた。

通信手段も交通手段も途絶え、あるいは自宅が被災しても消防士は一刻を争い仕事に行った。

灘消防署でも当直の隊員以外の77名に対し非常招集がかかり、ほとんどの職員は自発的に参集し、10時までに50人以上が灘消防署に駆けつけることができている。

地震当日には灘区内で16件の火災が同時に発生した。灘消防署にはポンプ車は予備車を含めても6台しかない。可搬式動力ポンプも2台。16件の火災に対して水を送れるポンプはすべて合わせても8台ということになる。しかも、消火栓はすべてダメ、防火水槽も数基は被害を受けたが、頼りは防火水槽、学校のプール及び川の水だけだった。60人ほどの人員で灘消防署にあるホースはすべて使い切り必死の消火活動だったが、結果的には、圧倒的な火勢の前に道路を利用した延焼阻止を行うのが精一杯という火災が5ヵ所も発生した。

さらに本当に申し訳ないことだが、消防車が消火に駆けつけることもなかった火災も数件あった。そうした現場では、消防団や地元の方々がバケツリレーなどでなんとか延焼をくい止めてくれた。

一方で、灘区内だけでも一万棟を超える全壊、半壊の家屋があり、至るところで救助を求められた。40人足らずの救助隊、救急隊を中心に、休む暇もなく次から次へと救助活動を実施した。とは言っても、神戸消防の有している資機材には、コンボやクレーンのような重機はないので、結局、チェーンソーやバールが主な道具という状態で人力が頼りだった。その結果、17日だけでも100人以上の方々を救出した。中には残念ながらお亡くなりになっている方もいたが、80人近くの方々を生存救出できた。17日の救出現場での生存率を考えると、もっと救助の人手があればと悔やまれる。

市民の皆さまにぜひ知っていただきたいのは、消防は早いといわれるほどではないかもしれないが、17日の午前中には東京や大阪などの消防車が神戸市の応援に出発してくれた。非常な道路渋滞に巻き込まれて、少し到着は遅れたが、17日夕方には応援隊も到着し、おそらく、他のいろいろな応援隊と比較しても一番早い方だと考えている。

18日以降は、多くの他都市の消防隊、救助隊、救急隊の応援を得て、急ピッチで消火活動、救助活動に当たった。水が不足しているので、すべての火災を鎮火するのに3日間かかった。その間は、本当に寝る間も食事をする間もないという状態であった。救助活動も、全国各地の救助隊の応援をいただき、自衛隊と地域分担して実施していった。初めは、まだ声が聞こえるという現場を最優先に、確実に人が埋まっているという情報のあるところ、そして最後には、しらみつぶしに倒壊家屋内を調べていった。

こうした状態で10日間ほどが過ぎた。日ごろから体を鍛えている消防士といえども体力の限界を感じた。特に頑健な救助隊員でも過労で倒れ入院するなど、ダウンする隊員も次々と出てきた。思い出してみると、汚い話だが、水の1滴も飲まずに活動していたため、初めての24時間で小便に2回しか行かなかった。さらに悪いことに、ドロドロに汚れても水がなく手を洗うことも、うがいをすることも難しい状況で、風邪まで流行ってきた。

こうした最悪の状況の中でも、すぐ近くの金沢病院の協力を得て、点滴を打ちながら頑張った隊員が多くいた。

救助作業が完了し、ようやく2月になり仕事も少し落ち着きを取り戻し、隊員も体力を少しずつ回復しつつある。確かに組織の問題、人員・資機材の不足の問題などがあり、市民の皆さまに対して十分な消防の責任を果たせなかったことは、心から申し訳なく思う。しかし、消火活動に、救助活動に、救急活動にと全力を出しつくした消防士は、頑張った。災害現場の経験の少なかった若い隊員も、ぐっと頼もしくなった。この経験を無駄にすることなく、より素晴らしい神戸消防に生まれ変わることを固く決心している。

悪戦苦闘の一日(1995年3月号掲載・野村 一夫)

ラジオで震度6の地震であったことを知った。『神戸市地域防災計画』では震度5以上の地震が発生すれば自動的に参集することになっていたと思い、原付バイクで灘消防署に向かった。

悪戦苦闘の始まりは、ロッカールームに辿り着くことだった。ロッカーからやっとのことで作業服を取り出し、早速火災、救助事案との戦いが始まった。

午前9時7分頃、「灘区鹿ノ下3丁目付近で火災が発生している」との通報で出動。国道2号線を通過した時、黒煙の噴き上がる量を見て火災の規模がかなり大きいことを直感した。

現場到着時、1街区の南東側が約1,500平方メートル炎上中で、消火栓は使用不能だったので、現場から西へ約200メートルの位置にある防火水槽に向かった。途中2ヵ所の消火栓も確認したがやはり使用不能だった。

阪神電鉄大石駅東側の防火水槽に部署し、ホースを約200メートル延長。南東側から延焼拡大中の火災の防御線を街区中央部の、南北に通じる路地と決め、筒先を配備し、放水を開始したが、約10分で水槽は空となり、転戦を余儀なくされた。

続いて南に約100メートルの所に架かっている都賀川の日ノ出橋の上に部署し、放水を再開したが、先ほどの防御線はすでに突破されていた。仕方なく防御線を変更し、消火活動を続けたが、途中何度も川のゴミが吸管ストレーナー(吸い込み用のホースの口に付けた器具)部にまとわり付き、吸水不能に陥りながらも、午前11時30分頃延焼阻止に成功した。

しかし、この一方で現場到着時に付近住民から「○○さんが生き埋めになっている」との通報を受けたが、火災の規模や、放水もまだ実施していないという状況下では、助けに行きたいがどうすることもできず、消火活動を進めた。

また消火活動中にも「数ヵ所で住民が生き埋めになっている」との通報を受け、筒先を現場付近にいた方に渡し、放水目標を指示して、生き埋め現場に向かったが、いずれも問い掛けに応答はなく、また消防隊の器具や人員では救出できる状態ではなかった。

さらに携帯無線機も先発の部隊が使用していたので連絡することもままならず、直接消防署に行くよう説得していると、ちょうどそこへ、火災現場北側の倒壊した文化住宅から助けを求める声がすると、駆け込んできた。14時30分頃だったと思う。

その場所に駆けつけると、灘救急隊が現場到着していた。文化住宅は2階建てで1階部分が座屈し、1階の夫婦2人が生き埋め状態となっていた。合同で2階の畳、床板、1階の天井をめくり、夫(64歳)を救出したが、奥さん(63歳)はタンスと畳の間に挟まれ、さらにタンスの上には建物の瓦礫が覆いかぶさっているため、人力では救出できない状況だった。

そこで現場近くの自動車修理工場からジャッキを借り、タンスを持ち上げて無事救出した。

結局鹿ノ下3丁目では6ヵ所12名の生き埋めがあり、無事救出されたのは4名だけで、残りの8名は亡くなられた。

このような現場で一刻も早く救出しなければと思う気持ちと、救助器具や人員が足りず救出できず情けない気持ちのジレンマで、自分たちが貧弱であると思った。

この現場では18日午前1時30分まで活動し、現場交替したが、2時間後には次の火災現場へと向かい、現場活動は続いた。

今回の活動を通じて、携帯無線機がないために、現場と消防車の間を何度も往復することとなり、時間のロスと隊員の疲労とを考えると、今後の課題として隊員全員に小型携帯無線機を貸与できるよう、検討してはと思う。

辛い1日(1995年3月号掲載・向井 良)


1月21日午前8時、連日の救助活動の合間をぬって、ほんの僅かの仮眠を終えたところへ新たな任務が言い渡された。

鉄筋コンクリート造4階建てのマンションの2階部分が崩れ、4名が生き埋めになっているというもので、地震発生以来、他の隊が何度か救出を試みては断念している現場だった。救出はかなりの困難が予想される。

現場に重機(ユンボ)担当の大野さんと到着してみると、生き埋めの4名がいると思われる2階部分には3、4階が非情にも重くのしかかっていた。

「無理かもしれない。無理や」

この状況を見た隊員は、皆そう思ったに違いない。でも、「もしかしたら・・・」

そんな僅かな希望を胸に救出作業を開始、必要と思われる資機材を2階に搬送した。

その時、我々が見たものは、冷たく変わり果てた大人と子どもの遺体だった。2人は見るからに重そうな鉄骨の下で、大きな体が小さな体を庇うように横たわっていた。何とも酷い最期に、各隊員は交わす言葉もなく、瓦礫の撤去作業を進めた。重苦しい空気の中で作業は続く。

さらに2人の方も遺体で発見された。一緒に眠っていたのか、同じ布団の中で母親が子供を庇うようにして亡くなっていた。

指令を受けた時から予想できたこととはいえ、実際に現場に立ち会ったときの気持ちは言い表すことができない。瓦礫を取り除くためのエンジンカッターや重機の爆音が無常に響いた。

一人また一人と、収容された遺体が家族に引き渡され、最後の一人となった8歳の子供が収容された時、父親らしい男性の目から堪えていた涙が一気に溢れ出ていた。

太陽が西の彼方に沈もうとしている。救出時間8時間。辛い1日だった。

人海戦術が頼りとは(1995年3月号掲載・橘 和臣)

「これは、ただ事ではないな」

停電で真暗闇。懐中電灯の光の中に浮かび上がった模様替えをしたような部屋のあり様を見て、まず署に連絡をとった。

「電話が通じず連絡がとれないでいる」という返事。何人かに連絡をとるがやはり不通。すぐにバイクで出勤した。

途中の長田区では、軒並家は潰れ、あちらこちらで、のろしのような黒煙が立ち昇り、東へ行くほど地獄絵はひどくなる。一番近い生田へ直行。隊員が来るのを待ちわびた様子の救急隊長の一声は、「よく来てくれた。すぐに着替えて出発しよう」だった。広報車に可能な限りの救助資材を積み込み出動。

現場は、古い軽量鉄骨造4、5階建てのアパートで4棟並んでいるが、いずれも1階部分が北側に押し潰され生き埋め者がいることは、一目瞭然であった。近くまで行くと、我々を見つけた市民が、助けを求めてきた。生存しているのが不思議なくらいで、2階の床は、高さ40センチぐらいにまで落ちており、その間に壁と家具類が、びっしりと詰まっている。その上、鉄筋が、何層にも行く手をはばんでいた。声をかけると、「苦しい早く助けて下さい!!」と5、6メートル奥から苦痛の声「すぐ助けるから、しっかりしろ!」と声をかけ作業にかかる。ルーカス・カッターで鉄筋を切り、入口を作る。そして、スプレッターのこぎり等で壁、家具類を破壊しながら、わずか40センチぐらいの空間へもぐり込み、場所を確認しながらひたすら破壊作業をくり返す。やっとの思いで要救助者の所まで辿りついた瞬間「ドドドー」震度4、5の余震。後ろ向きのまま、這って逃げようとしたが身動きが取れず、この時ばかりは、死を覚悟した。救出活動から5時間ぐらいかかってようやく生存者を救出する。

ほっとする間もなく、次々と救助を求める市民の声が耳に飛び込んでくる。

ほとんどが全壊状態の家屋であり、下敷きとなると人の力だけでは到底ガレキを取り除いて救出することは不可能に近い。

自ずと市民の救助隊に寄せる期待は大きく、それは祈りにも近いものがあり、我々もそれに応えるべく力の限りを尽くすのだが、これほど甚大な被害を出す大災害の前には、我々の努力も無に等しい・・・。

原始的ではあるが『人海戦術』に頼らざるを得ないが、人も機材もあまりに足りなさすぎるのだ。

この『人員』と『機材』の不足は、救助を求める市民にとってもまた救助する隊員にとっても考える余地のないほど相当に深刻で生死を分ける大きな要因の一つになったといっても過言ではないだろう。

満足感のない救助活動(1995年3月号掲載・東 泰宏)

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1月17日、神戸を襲った地震から10時間が経過している。灘区弓ノ木町、山手幹線沿いのコンクリート造3階建て店舗兼住居に男女2名が、生き埋めとの情報を受け、現場に向かう。地震発生から7時間が生存救出のタイムリミットなのだが、今回大災害で私たちが、救出し生存していた確率は、1割を満たない。この事案でも危険な時間が迫っている。

現場到着すると家族が倒壊した建物の前に立ち、私たちを見つけるや「親父を助けて下さい。返事はしますし、意識ははっきりしています」かなり興奮気味に言った。だが、情報では男女2名とあったので「もう1名は?」と聞くと、「お母さんは、親父の横で息を引き取りました」と唇を噛みしめていた。

建物は、1階が店舗、2階が事務所、3階が住居で屋上には、家庭菜園と大型収納倉庫2つが並んでいる。1階の店舗は陳列物が散乱し、柱が倒れ、2階については床が斜めになり不安定な状態で、3階は完全に押し潰され進入する事はできない状態である。

私たちが到着する前に家族の方が2階の天井に15センチ位の穴を開け、上階のベット位置を確認し、東側に頭を向けて寝ている事も分かった。

救出は困難を極めた。3階部分は地震による屋上の重みに耐えきれず、いつ作業している2階に落ちてくるか分からない。また、余震への恐怖感とが重なりなかなか救出が進まない。活動当初、ベットをある程度破壊し救出しようとするが、足場が不安定であり、隊員2名がやっと入れるスペースしかないために活動が十分にできず、その上、ベットの鉄製スプリングが邪魔をして上手くいかない。他に良い方法がないかと屋上に上がり、上からの救出を試みるが、大型収納倉庫を移動させるしかなくそれを行う時間もなかった。要救助者に呼びかけるがだんだん声が弱くなってくる。

だが、何か良い方法はないかと、私は隣の東側の建物に進入し壁を破壊して救出できないものかと考えて、中隊長にその旨を伝え、隊員2名と2階のベランダから進入、その部屋は空き家で木造モルタル塗2階建てで高さも要救助者がいると思われる位置であった。「一か八か、やってみる事で何らかの結果は出せる」と自分に言い聞かせた。救出隊を2班に分けて1隊をベットの破壊に、もう1隊が壁を破る2つの方法で救出を始めた。

交替で壁を破ること1時間、ようやく倒壊建物の東側のコンクリートの外壁が見えた。しかし、見るからに頑丈そうな感じで、破壊する隊員の手は次第に豆だらけになり疲労の色も隠せなかった。

血に染まるハンマーを振りながら、コンクリートを叩いては鉄筋を切り、切っては叩きを繰り返し、ほとばしる額の汗を拭い、やっとの想いで直径30センチの穴が開いた。それは、希望の扉でもあった。だが喜びも束の間、強力ライトを穴に照らすと幾つも重なる柱やタンスが倒れているのが分かった。予想していたよりもはるかに状態はひどかった。

強力ライトを持つ手を肘ぐらいまで入れ、「お父さん、ライトの光が分かるか」と呼びかけた。数分間の沈黙の後「北方向からかすかに見える」と答えた。喜んではいられなかった。いつ余震がくるかと考えると、自然とハンマーを握る手にも力が入り自らも励ますように「大丈夫か。もう少しやぞ」と大声で呼びかけると答える声にも力強さがあった。

ようやく、人一人が抜け出せる大きさの穴が開くと約1.5メートル先に横たわる要救助者の姿が見え、動けるのかどうか確かめると「足に何かが乗っており身動きがとれない」という返答があったため、隊員1名が穴に入り、引っ張り出した。ようやく救出できたが、その顔はやつれ、一人では立っていられない状態であった。

「ありがとうございました。妻は救出できますか」と隊員2名に抱きかかえられながら堰を切ったように尋ねてきた。

隊長から重機が必要との説明を聞き、無言で倒壊した建物に向きなおり、手を合わせる姿に「お母さん、すまん」というお父さんの嗚咽が部屋に響いた。

自然という目には見えない力が、夢や希望、街や愛する人を奪った。『神戸』とは『神の戸(扉)』と書くが、その扉が今、閉ざされたのか、それとも我慢できずに開け放たれたのか。あまりにも神は、我々を傷つけ自然という暴力は大きすぎた。

地震発生後、何度も「今、自分は悪い夢を見ているのだ」と目の前に広がる地獄を理解するのに時間が掛かった。今まで、どのような災害に出会っても、仲間と共に救出、救助、消火活動をし、この仕事に誇りを持っていたが、今回は違った。助けを求めて来ている人々に答える事のできない自分の力の無さを嘆き、自然の恐ろしさに驚異を感じた。しかし、この事案は発生10時間が経過し生存率が極めて低かったのにもかかわらず救出できた。それは、奇跡にも近い人間の強さであると感じた。

1ヶ月が過ぎても、未だに余震が続き何が起きてもおかしくないが『防災の街の神戸』を目指し、人々が安心して暮らせる笑顔の絶えない街づくりに微力ながら尽くして行きたい。この街が復興できるその日まで・・・。

死を無駄にするな(1995年3月号掲載・安部 吉師)

この現場はJR六甲道駅と国道2号線の間に位置し、被害が大きかった地域の中にある。鉄筋コンクリート造4階建ての2階部分から上が北側に倒壊し、隣接する木造の民家を下敷きにしていた。震災から1週間、それまで作業を続けていた隊と現場交替して救出活動に入った。

いざ作業に取り掛かるとしても相手は鉄筋コンクリートのビル。至る所で鉄柱が突き出し、何時倒れてくるか分からないコンクリートの壁。足場も悪く、ひとつ間違えれば我々自身も生き埋めになるかもしれない。そんな危険な状況の中、付近住民から得た情報をもとに他都市の救助隊とともに救出を急いだ。重機による解体が始まり、少し撤去しては確認する作業が続く。しばらくして2階と思われる床が発見され、そこからは手作業となった。折れた角材、潰れた家具など色々なものを搬出する中、布団が発見された。「もしかしたら・・・」の願いも虚しく、その間から紫色に変わり果てた手が苦しさを訴えるかのように突き出ていた。

作業は一層慎重に行われる。

無惨にも家人の上にはタンスがのしかかり、さらにその上からビルの鉄骨が押さえつけている。タンスの撤去を試みるが、それが原因でビルが崩れるのではないだろうか。さまざまな不安がよぎる中、重機を操る作業員からアドバイスをもらいながら作業を続け、収容した。

身内を心配し、遠方からやっとのことで到着した人たち。できることなら避難所での再会を望んでいたはずだ。息絶えた家族を乗せて去っていく車。我々の作業は続いた。この現場は2日間にわたる長期戦だった。救助人員6名、すべて死亡救出だった。できることなら無事救出したかった。紙一重で生き残った我々は、この地震で亡くなられた方々の死を無駄にしてはいけない。

地震発生直後の体験(1995年3月号掲載・伊藤 力)

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地震が発生した悪夢のような明け方、私は消防職員待機寮で寝ていた。今までに体験したことのない凄い揺れで跳び起きた。慌てて寮のベランダから外を見ると、須磨区、長田区、兵庫区のあちこちから火の手が上がっていた。これは一大事と思い、同じ所属の職員と自家用車で灘消防署に向かった。

出発した当時は火災のことしか頭になく、JRの高架沿いに車を走らせていると、「まさか、こんなに家が倒壊しているなんて」と、茫然としてしまった。

それ以上に長田区の炎上火災や中央区の高速道路の崩壊には驚かされた。

その現場を横目で見ながら消防署に到着した時には、消防車が1台もなく、庁舎の前には、「うちのおじいちゃんを助けてください」「消防は何してんねん。早ようちに来んかい」とパニック状態の市民で溢れかえっていた。消防・救急の両係長が必死で応対している。

庁舎を見ると防火台の上部が崩壊しかかっていて、非常に危険な状態となっていた。我々は、服を着替えるため庁舎内に入ると、書棚やロッカーなどが散乱し、とても着替えどころではなかった。とりあえず防火着を私服の上に羽織り、管内で発生している火災現場や建物の倒壊現場へと向かった。

真の防災拠点作りを(1995年3月号掲載・志井 秀樹)

このたびの震災に際して、消防職員個人個人は、それぞれの能力の200パーセント、300パーセントを発揮し、活動した。自らの使命感と市民の要請に駆り立てられ、体力の限界をはるかに超えた活動であった。

しかし、そこまで頑張った職員の心に、共通した無念さが充満していると思われる。

「水があれば」「人員が豊富なら」「スムーズに部隊運用ができれば」「情報が早く、正確に伝われば」「資機材があれば」など、個々の力ではどうしようもない事態に直面し、口唇を噛み、悔し涙を流したに違いない。

将来、この神戸市を同程度の災害が襲った時、今回より一人でも多くの命を救うため、施設、装備面と組織面の両面で強化を図り、真の防災拠点を確立する必要がある。

「施設、装備面」で特に強く感じたのは、

  • (1)災害に強い庁舎
  • (2)ユンボ・クレーン等重機の配備と調達ルートの確立
  • (3)資機材庫の充実

以上の3点である。

「災害に強い庁舎」については、生田、葺合両本署の崩壊に象徴されるが、灘消防署においても、地震が発生し、激しい揺れが治まるのを待って状況を確認しようとするが、停電により思うにまかせず、待機室の出口まで手さぐりで辿り着くと、ドアが開かない。やっとの思いでドアを開けると、更衣用ロッカーがすべて倒れて一つひとつ起こさないと先へ進めず、ガレージへ通じるドアに手を掛けると、また開かない。ガレージへ出ると、ヘルメットや防火衣が入っているロッカーがすべて倒れ、消防車や救急車に倒れかかっており、ヘルメット、長靴、防火衣などが表の道路にまで散乱する有様であった。そして隊員は、暗闇の中で見付けたありあわせの装備で多発する火災の現場に向かったのである。

その後、指揮本部、応急救護所、臨時給油所、非常招集者駐車場、応援消防本部車両の駐車場、休憩所、仮眠室、救援物資置場等々想像をはるかに超える臨時スペースが必要となったが、署のガレージや中庭をすべて使っても対応できるものではなかった。

消防署が災害の拠点となるためには、あらゆる意味で自給自足が可能な要塞であるべきだと思う。

「ユンボ・クレーン等の重機」についてはある程度の台数を神戸消防も保有し、大量に必要となった場合の調達がスムーズに行われるより、調達ルートの確立が急務である。

救助現場に到着し、重機がないためあきらめて、後まわしとなった現場がどれほどの数にのぼるか、水が無かった消火作業と共に悔やまれる点である。

「資機材庫の充実」は、消防職員、団員が使用するだけでなく、今回の災害では市民から「スコップを貸してくれ」「バールは無いか」「ジャッキが必要だ」との声が多かった。

多くの市民が、家屋の下敷きになった人を自分たちで救助しようとしたが、道具がなく、手をこまねいたケースが多発した。

そのためにも、従来の水防倉庫と同様のものを市内各所に置き、災害時に自由に使用してもらうようにすればと思う。

3点以外にも、隊員間連絡用無線や耐震防火水槽の増設も重要と思われる。

「組織面」においては、

  • (1)職員数の不足
  • (2)指揮隊の重要性
  • (3)専任救助隊の各署配置
  • (4)局編成による情報収集隊の各署への派遣

以上4点が必要と感じた。

「職員数の不足」は(2)(3)とも関連してくるが、今回の震災で団員の方が1名過労死される事態が発生し、マスコミは不眠不休の活動を大々的に報じ、ある意味で「美談」として取り上げたが、いかなる災害であっても生身の人間が仕事をする以上、不眠不休であってはならず、ましてや「美談」など有り得ないと思われる。大きな災害であればあるほど適正なローテーションで現場活動が実施できる人員の確保が必要であろう。

「指揮隊の重要性」「専任救助隊の増隊」は、以前からも課題としてあがっており、今回改めて痛感した項目である。

「局編成による情報収集隊の各署への派遣」も人員不足によるところであるが、局が情報を要求してきても、それに応えるべき人員が無く、局の各セクションの要求内容もつかみきれないため、災害対応の一手段として取り入れてはどうかと思う。

その他反省点をあげれば、きりがないほどであるが、多くの消防職員、市民の方の声を聞いて、災害の無い街の、真の防災拠点作りを願うしだいである。

お問い合わせ先

消防局予防部予防課